記憶から消えたシンガポールの歴史

2009/04/14

シンガポール編、最後の話題はシンガポールの王族(だった)スルタンの今。
シンガポールの歴史の教科書に載っていない歴史をたどるウォークツアーに参加したのですが、その中で行ったモスクと墓地をご紹介します。
※今回はちょっと文章多め。

参加したウォークツアーはThe Original Singapore Walks®Sultans of Spice™というもの。
このツアー会社自体が「他の人が行かないようなところを案内する」と銘打っているだけあってマニアック。今回参加したツアーも、実はシンガポールには(傀儡政権でしたが)スルタンが存在し、イギリスと「取引」を行ってシンガポールでの活動を認めていたこと、その後堕落してゆき、徐々に実権も金も失っていくこと、そして今や、墓地の存続すら絶望的なことを2時間半ほどトコトコ歩き回りながら説明してくれました。
こんなに内容が濃いとは思わずほぼ手ぶらで行ってしまったのですが、せめてノートとペン、できればICレコーダーでもあったほうがいいと思います。学校で習った歴史はからっきしだった私がおもしろいと言うのだから間違いない。


さて、スルタンというのはイスラム教における王や君主のことを指します。もともとシンガポールはイスラム教国であるマレーシアの一部であったことから、ここもスルタンが治める土地でした。人口としては中国系も多かったようですが、彼らは移民(というか、ほとんど難民)ばかりだったため、権力はありませんでした。(実はチャイナタウンにあるChinatown Heritage Centreというところで中国人の視点から見たシンガポールってのも見てきたのですが、博物館内は撮影禁止だったので今回記事にしていません。)

さて、シンガポール(を含むマレー半島の先っぽのほうのJohorというエリア)はもともとオランダの勢力下にありました。でも、ここに貿易のための拠点を作ろうとしたイギリスは、当時勢力争いに負けて近くの島で隠遁生活をしていたSultan Hussein Shah(スルタン・フセイン・シャー)を勝手にシンガポールの支配者として担ぎ上げ、フセイン・シャーからシンガポールでの交易拠点構築許可を得ます。当然オランダとは喧嘩になるわけですが、Anglo-Dutch Treaty of 1824という協定を結ぶことで、シンガポールにおけるイギリスの活動はオランダからOKが出ます。
もうこの時点でスルタンは明らかにお飾りにされているのですが、元々のスルタンと、イギリスが担ぎ上げたスルタンというのは異母兄弟。しかも先代のスルタンが死んだときにちゃんと後継者を指定していなかったものだから、血筋という意味ではどちらも王位継承権はあったわけです。
これにイギリスは目を付け、勝手に祭り上げ、勝手にオランダと取引して勢力範囲を決め、シンガポールに関してはSultan Hussein Shah of Johor(ジョホール)という新たなスルタンを作ってしまったわけです。商売のために国を作ってしまうとは、すごい話です。

さて、そんなわけで、シンガポールにイギリスの息のかかったスルタンが誕生しました。スルタンとは言え一度隠遁していた身のため、バックアップはイギリス(東インド会社)。当時のイギリスは「取引」としてシンガポールで上がる収益の一部をスルタンに対して払っていました。そして、住む場所としてKampong Glam(カンポン・グラム)を用意しました。

当時の道幅としては広かったんでしょうが、今となってはKampong Glam周辺には狭すぎる道路が残っています。
道路
また、この道路、家の前に歩道のようなものがありますが、これはイギリス式の建て方だそうです。このエリアに限らず、シンガポールのあちこちにこういった通路があります。雨が降ることが多い地域ですが、この通路を伝っていけばそれほど濡れずに移動は可能です。

狭い路地なんかももちろんあります。
道路
これは少し遠くから一瞬で撮ったのでちょっとぶれていますが、露天の床屋です。シンガポールでも数えるほどしかもう残っていないそうで、その一つがこのエリアにあります。

さて、Kampong Glamに住んでいたスルタンですが、その家(というか宮殿)の隣にモスクを建てることを思いつきます。そうしてできたのが、最初のMasjid Sultan(マスジド・スルタン)もしくはSultan Mosque(スルタン・モスク)です。これがシンガポールで最初のモスクとなります。

このモスクは建立から100年後の1924年、手狭になったこともあり立て直しが始まります。4年の歳月をかけて建設されたようですが、その結果できたのが今のモスク。
スルタン・モスク
いかにもアラビアンな感じですが、実はこれを設計したのはデニス・サントリーというアイルランド人。そして、このモスクの特徴の一つが、屋根のところにある黒い帯。
この部分を拡大したのが下の写真。
瓶底の帯
モスクの建て直しにあたっては、イスラム教徒からの寄付が集められました。一定のお金がある人たちはお金を出したわけですが、貧困層にはその余裕がなく、瓶を拾い集めてそれを売り、寄付のための資金を作ったそうです。この話を聞いたデニス・サントリーが、その努力の証を残そうと瓶底の帯を設計の中に取り入れたそうです。
※ただ、この瓶底の帯に関しては採光のためと書いているwebサイトもありました。

このモスクはいろいろ珍しく、まず、中の見学が可能。
モスク内1
これが入ってすぐに見える景色。柵の向こう側が礼拝するための場所になります。
ちなみにこの入り口にある看板の意味をモスクのおじさんに聞いたら、イスラム教の解説が始まってしまいウォークツアーから一時はぐれました…(しかも結局これになんて書いてあるのか聞けてない)。

そして、柵のところから中を見た様子。
モスク内2
2階があるのがこの写真だと分かりますが、2階は女性が礼拝するための場所だそうです。一つの大きなモスクで、男女とも礼拝できるようになっています。1階と2階は確実に区分されているので、別の場所ということなんでしょう。

下に敷いてあるカーペットは、こんな感じです。
カーペット
模様の左端にあるのは、サウジアラビア王家(サウド家)の紋章。イスラム教の聖地であるメッカ(マッカ)がサウジアラビアにあるから…ではなくて、サウド家は世界中の主要なモスクに対し、カーペットを寄付しているんだそうです。だから、世界中のモスクにはサウド家の紋章が入ったカーペットが敷いてあるというわけ。
ウォークツアーからはぐれつつ解説してもらったところによると、この窓のような形一つ分が一人のエリアです。ここにみんな詰めて並んで、礼拝をします。正直ちょっと狭いのですが、これにも意味があり、腕組みして立った状態で並ぶと、肩が触れるくらいのサイズにわざとしてあります。これはイスラム教徒としての連帯感を高めるためなんだそうです。
そういえばキリスト教の教会も椅子は長椅子ですが、もしかして隣の人とくっつくためにわざとああなっているんでしょうか?

さて、Kampong Glamにあった王宮ですが、現在はMalay Heritage Centreというマレーから見た歴史の博物館になっています。
Malay Heritage Centre

王宮が今は博物館になってしまったわけですが、では王宮にいた人はどうなったのか?

一時は近くの島で隠遁生活をしていたのに、勝手に担ぎ上げられて、いきなりシンガポールのスルタンになって、何もしなくても金が入ってくる生活。当然堕落していきます。当初イギリスと契約した金額だけでは足りなくなり、イギリスに対して金の無心をするようになります。
実際に権力を持っていればもうちょっと交渉のやりようもあったのかもしれませんが、イギリスは現金の収入を多くする代わりに、権益の確保や将来の子孫に対する年金の打ち切りなどを打ち出していきます。
そして、何代か経ったところですべて終了。今でも一部の人に年金を支払っているらしいのですが、スルタンの子孫たちは、すでに自分のルーツがスルタンであることすら知らず、一般人として仕事をしています。それこそタクシーの運転手とか。

その人がスルタンの子孫であるかどうかを見分ける方法は、ただ一つ。IDカードの名前にあるキーワードが付いているかどうか。そして、これ、肝心なことかもしれませんが、そのキーワードが何であるか…忘れた。
上で書いたタクシーの運転手がなぜ見つかったか?というのは、タクシー運転手はIDカードを掲示しているからです。ウォークツアーのガイドがタクシーに乗ったとき、IDにこのキーワードが載っていることに気付き、本人にスルタンの子孫であることを確認したそうです。
しかし、残念ながらすでに本人すらそのことを知らず、自分のIDカードにそんなキーワードが付いていることも気にとめていなかったそうでした。

もう、このような状態ですし、IDカードに載っているキーワードも、忘れて良かったのかもしれません。覚えていたとしても、ここに書くべきかは悩ましいです。


ウォークツアーの最後は、スルタン一族の墓。
墓地
そもそもイスラム教の墓ってどんなんだ?ということからして知らなかったのですが、墓石はあるようです(地域によって違うようですが、少なくともシンガポール周辺では)。
イスラム教では人は土から生まれ土に還ることからメッカの方角を向けて土葬し、頭と足のところに墓石を建てます。墓石は2種類あり、柱状の形のものは男性を、板状の形のものは女性を表します。つまり、墓石の種類と大きさを見れば、男女の別と子供だったかどうかについては分かるそうです。

たとえば、これは女の子の赤ちゃんのお墓。
女の子の赤ちゃんの墓

先ほどからの写真は草ぼうぼうの荒れた墓地なのですが、その一角にちょっと高くなっているところがあります。
スルタン一族の墓1
これがスルタン一族の墓(と、思われる)。周囲にたくさんある墓は、家来のものではないかと考えられているそうです。

しかしここで問題が一つ。高くなっているところはこのような感じなのですが、
スルタン一族の墓2
墓石に何も書いてないから、誰がどこに埋葬されたのかさっぱり分からない!
確認のしようがないので、スルタンだけは別の場所に埋葬されたりしていても分からないのです。

草ぼうぼうなあたりから管理がおかしいのは分かるかと思いますが、今ここを維持する費用を出しているのは、あるマレーシアのスルタンだそうです。そのスルタンとは、シンガポールをフセイン・シャーに対して明け渡すこととなったスルタンの末裔。異母兄弟間で勢力争いをし、一時は勝っていたもののイギリスとオランダの勝手でシンガポールを取られた相手。その末裔が忘れられたスルタンの墓の維持費を出しているそうです。
まあ、潤沢に、とは言えないようですけど。

本当ならお墓の写真なんてあんまり撮ったり公開したりするものでもないかと思うのですが、これを敢えて公開したのは訳があります。実はこの場所、再開発指定区域のため1年か2年後にはショッピングモールなどの複合商業ビルになっている予定です。
以前の記事に書いたとおり、シンガポールのほぼ全ての土地が政府管轄下にあり、ここも例外ではありません。「ほぼ」と書いている通り例外はあるのですが、その例外はイスラム教寺院の保有する土地のみ。
残念ながらこの墓地は政府管轄の土地になっているそうで、再開発計画から守る術はないとのことでした。

ウォークツアーのガイドはマレー系の人で、自分のルーツを調べていく中で忘れられたスルタンの存在を知ったそうです。
スルタンによってイスラム統治がなされていたシンガポール(当時はシンガプーラ:ライオン島)。中国からの難民大量流入で人口の8割が中華系になったシンガポール。イギリスの植民地になっていたシンガポール。日本軍にジャングルから自転車で攻め込まれたシンガポール。西洋人に対するコンプレックスを打ち破り、東南アジア諸国独立の引き金を引いたシンガポール。民族が違いすぎたのでマレーシアから切り離されるかのように独立させられたシンガポール。水も食料も産業もないので、独裁体制の下で貿易と金融で発展してきたシンガポール。

今回書けなかったり書かなかったこともありますが、実に興味深い旅でした。

コメント

この濃い内容が全部英語なんですよね?
メモも取らずにこれだけ覚えていることがすごい!!!

信じられません。

露天の床屋さん、写真撮りたいです

2009/04/21 nanami

>>nanamiさん
実際にその場所で、図表や写真を見ながらの解説だから分かりやすかったですよ。
今回の記事を書くにあたっては、Wikipediaに載っていた情報を読みながら思い出しつつ書きました。

ま、一部の読者からは「教科書みたいで飽きた」と苦情が来ましたが(笑)

2009/04/22 妖


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